カルノーは <フランス・物理学者・人物>
フランスの物理学者、数学者。
フランス革命のさなか、いわゆる革命暦の第4年プレリアールにあたる6月1日に、動乱のパリの小ルクサンブール宮で生まれた。
国民公会が解散し総裁政府が成立した直後である。
父ラザール・カルノーは、数学・機械学に通じていたのみでなく、共和主義の政治家としても活躍し、総裁の一員であった。
N・L・S・カルノーは、父の訓育を受けたのち、入学の許される16歳に達してすぐパリのエコール・ポリテクニクに入り、電磁気学のアンペール、熱学のゲイ・リュサックらの指導を受けた。
卒業後、メス市の駐屯地で工兵科の学校将校として勤務、3年ほどでパリ参謀部に転属、物理学者クレマンと知り合い、学習と研究を続けた。
その間、父はブルボン王朝の復活で追放されたが、1821年カルノーは弟イポリートとともにドイツのマクデブルクで父と会見、この旅行以後、蒸気機関の研究に心を傾け、主著『火の動力に関する考察』を書き上げた。
本書は、火力を動力に変換するときの条件と効率に関する諸問題を、水蒸気の性質や蒸気機関の動作などの具体的データを引き合いに出しつつ論じたもので、変換の条件としての温度差の必要性をはじめ、のちにいう準静的過程、可逆サイクルと同等な概念や、今日「カルノー・サイクル」とよばれること(変換の効率は可逆サイクルにおいて最高であり、その値は高温源と低温源との温度だけで決まる)を、明快に説いている。
彼の説は古い熱素観の立場での論究ではあったが、本書は、いわゆる熱力学第二法則を先取りしたものであって、洞察の鋭さに関し比類まれな科学の古典である。
しかし、真価が認められ始めるのは、4分の1世紀ものちのケルビン、クラウジウス以後のことに属する。
同書刊行後、軍務に復帰、やがて退職して研究に専心したが、しょうこう熱に続いてコレラに冒され、1832年8月24日、短い生涯を閉じた。
遺品の多くは焼却されたが、焼かれずにすんだ『覚え書』と『蒸気力の公式』とが、『考察』を補う貴重な資料となった。
フランス革命のさなか、いわゆる革命暦の第4年プレリアールにあたる6月1日に、動乱のパリの小ルクサンブール宮で生まれた。
国民公会が解散し総裁政府が成立した直後である。
父ラザール・カルノーは、数学・機械学に通じていたのみでなく、共和主義の政治家としても活躍し、総裁の一員であった。
N・L・S・カルノーは、父の訓育を受けたのち、入学の許される16歳に達してすぐパリのエコール・ポリテクニクに入り、電磁気学のアンペール、熱学のゲイ・リュサックらの指導を受けた。
卒業後、メス市の駐屯地で工兵科の学校将校として勤務、3年ほどでパリ参謀部に転属、物理学者クレマンと知り合い、学習と研究を続けた。
その間、父はブルボン王朝の復活で追放されたが、1821年カルノーは弟イポリートとともにドイツのマクデブルクで父と会見、この旅行以後、蒸気機関の研究に心を傾け、主著『火の動力に関する考察』を書き上げた。
本書は、火力を動力に変換するときの条件と効率に関する諸問題を、水蒸気の性質や蒸気機関の動作などの具体的データを引き合いに出しつつ論じたもので、変換の条件としての温度差の必要性をはじめ、のちにいう準静的過程、可逆サイクルと同等な概念や、今日「カルノー・サイクル」とよばれること(変換の効率は可逆サイクルにおいて最高であり、その値は高温源と低温源との温度だけで決まる)を、明快に説いている。
彼の説は古い熱素観の立場での論究ではあったが、本書は、いわゆる熱力学第二法則を先取りしたものであって、洞察の鋭さに関し比類まれな科学の古典である。
しかし、真価が認められ始めるのは、4分の1世紀ものちのケルビン、クラウジウス以後のことに属する。
同書刊行後、軍務に復帰、やがて退職して研究に専心したが、しょうこう熱に続いてコレラに冒され、1832年8月24日、短い生涯を閉じた。
遺品の多くは焼却されたが、焼かれずにすんだ『覚え書』と『蒸気力の公式』とが、『考察』を補う貴重な資料となった。
update:2010年03月18日
